18世紀のベンチャー起業家?

ケリアブログ

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年にザルツブルグで生まれました。

彼の洗礼名は「ヨハネス・クリソストムス・ヴォルフガングス・テオフィリス・モーツァルト」と言います。ミドルネームの「テオフィリス」は「神の愛」という意味のギリシャ語で、「アマデウス」は同じ意味のラテン語。同じく「神の愛」を意味するドイツ語の「ゴットリーブ」が使われることもしばしばありましたが、本人は「アマデウス」が一番気に入っていたようで、今でもこのミドルネームが一番よく知られています。

父のレオポルト・モーツァルトも音楽家であり、早くからヴォルフガングとその姉マリア・アンナ(ナンネルという愛称で知られている)の才能に気づき、二人の子供を連れてオーストリアやドイツ、フランス、イギリス、オランダ、イタリアなどヨーロッパ各地を演奏旅行をして回りました。

モーツァルト一家、左からナンネル、ヴォルフガング、レオポルト(肖像画は亡き母アンナ・マリア)

当時の音楽会は裕福な王侯貴族の主催によって行われるものでした。また、幼いながら才能豊かな二人は貴族のサロンや宮廷で人気を集め、モーツァルトはこの時期に数多くの王族や貴族と知り合うことになります。音楽家はあくまでも地位の低い家臣の立場なのですが、演奏会や個人レッスンなどを通じて高貴な人々に近づく機会が多かったのです。

一方で、演奏をしている時以外の普段の生活では、宮廷の使用人や町人など一般人と交流する機会がありました。演奏旅行をしながら各地を渡り歩くうちに、多感な時期のモーツァルトは世間の噂話やさまざまなニュース、庶民の間での王侯貴族に対する口さがない批評などを耳にしていたことでしょう。そして、時は18世紀後半。フランス革命を目前に、ヨーロッパの社会情勢が大きく動いていく時期でした。

大人になってからのモーツァルトは、それまで父と共に仕えていたザルツブルクの大司教のもとを飛び出し、ウィーンで宮廷音楽家の職を得ようとしていました。しかし、どの仕事もなかなか長続きしません。音楽家にとって安定した収入を得る唯一の道が王侯貴族に仕えることでしたが、それもほんの一握りのエリートだけに可能なことでした。ニコラウス公に30年も仕えることのできたハイドンはエリート中のエリートだったのです。

ただ、モーツァルトはもともとかなり頭の切れる人だったようです。フリーランスの音楽家として不定期に舞い込む演奏や音楽レッスン、作曲の仕事などでなんとか家族を支えていましたが、いつしか逆境をチャンスに変える方向に発想の転換をします。

このまま貴族の言いなりになって音楽活動をしているだけではだめだ。貴族階級はだんだん力を失いつつある。やがて平民が経済を動かし、音楽にも金を出す時代が来る。これからは広く庶民に受け入れられる音楽を作っていかなければ。

実は、モーツァルト以前の時代には「音楽そのものが価値を持つ」という考え方は一般的ではありませんでした。ニコラウス公とハイドンの関係が良い例ですが、貴族中心の社会では、作曲も演奏も音楽指導もすべて込みで音楽家を雇うのが常識でした。「一曲いくら」という依頼で曲を書かせることはあっても、あくまで「作曲」という行為に対しての対価を払うのであり、現在のように曲そのものを売買したり、演奏や楽譜の売り上げの一部が作曲者に還元される「著作権」が広く認識されるようになるのはもう少し後のことです。

しかし、それでもモーツァルトの生きていた時代に状況はどんどん変わっていきました。18世紀後半、フランスの作家ピエール・ボーマルシェが、演劇作品の上演から得られる利益が戯曲家に還元されるようにと劇作家協会を立ち上げます。それまでは、上演の利益は主催者や劇団に搾取される傾向があったのですが、脚本の作者にも一定の権利があると主張したのです。モーツァルトはこのボーマルシェの作品の一つ「フィガロの結婚」を題材にしたオペラを書いています。

これからは、貴族と専属契約をしない作曲家でも、その作品の上演や楽譜の売り上げから安定した利益を得られる時代になる!

そう確信したモーツァルトは、庶民向けの劇場作品を手掛けるエマニュエル・シカネーダーという劇団座長と手を組み、シカネーダーの台本によるオペラ「魔笛」を1791年に発表します。

「魔笛」は当時のオペラとしては異色のものでした。まず、伝統的なオペラというものはドイツ語圏でもフランス語圏でもイタリア語で歌われるのが一般的でした。オペラを鑑賞する貴族たちは、当然のたしなみとしてあらかじめ台本の自国語訳に目を通し、話の筋を頭に入れておくのが常識だったのです。

18世紀後半から19世紀にかけて、オペラをそれぞれの国の言葉で歌おうと言う風潮が強まって来ましたが、「魔笛」はその先駆けの一つでした。台本はすべてドイツ語で書かれ、説明文的な「語り」も入っていました(「オペラ」の定義はセリフに全て曲がついて「歌」になっていること)。

ドイツ語で書かれていることと、曲のつかない「語り」があることから、歴史的には魔笛をドイツの土着の演劇形態である「ジングシュピール」に分類する傾向もあったのですが、最近ではモーツァルトが目指したのはあくまでもオペラであり、ドイツ語や語りはオペラに慣れていない一般人でも分かりやすいように配慮したもの、と解釈するようになってきています。

使われている曲も、コミカルで聴いていて楽しいパパゲーノとパパゲーナのデュエットや、ソプラノの最高音域を駆使する技巧的な夜の女王のアリアなど、多彩で聴きどころの多いものになっています。

The Magic Flute – 'Pa–, pa–, pa–, Papageno' duet (Mozart; Gansch, Williams; The Royal Opera)
The Magic Flute – Queen of the Night aria (Mozart; Diana Damrau, The Royal Opera)

ちなみにこの夜の女王のアリア、高い声で軽快に歌っていますが、実は自分を裏切った娘を叱責し、その原因を作った敵に復讐を誓う怖~い歌なんですよ。確かに母親は怒れば怒るほど声が甲高くなっていくものなのかも……。

一般人を意識したとみられるもう一つの要素が、ストーリーです。「魔笛」の話の筋が一貫していない、前半と後半で矛盾がある、ということは昔から言われてきました。確かに、味方だったはずのキャラクターが悪役になり、悪役だったキャラクターが実は良い人だった、と物語の途中で善悪が入れ替わってしまうのです。その入れ替わりの根拠が弱い、主人公が何の疑問も持たずにその入れ替わりに順応してしまうのもおかしい、という批評は根強くありました。

あくまでも一説ですが、シカネーダーは上演間近になって突然台本の大幅な書き換えを強いられた可能性があるそうです。実は魔笛が上演されるはずだったウィーンの劇場のすぐ近くで先立って上演されていた演劇があり、その筋書きが魔笛のオリジナルの台本とよく似ていた、というのです。もし本当に書き換えがあったとしたら、著作権についてはうるさく言われない時代だったものの、やはり「パクリ」は観客の心証を悪くするのでまずい、という感覚があったという貴重な例になりそうです。

魔笛はまたスポンサーを強く意識した作品でもありました。モーツァルトもシカネーダーもフリーメイソンのメンバーでしたが、魔笛にはフリーメイソンを象徴する要素が数多く取り入れられていると言われています。

フリーメイソンと聞くと「何やら得体のしれない秘密組織?」というイメージが強いかもしれませんが、18世紀から19世紀にかけての文化人・知識人の間では、経済的に困窮したメンバーをお互いに助け合う互助会のような性質を持っていました。政情不安定で芸術家や文筆家にとっても先行き不安な時代、モーツァルトだけでなくハイドン、サリエリ、ベートーヴェン、ゲーテ、シラーなど当時の有名文化人がこぞって名前を連ねていました。フリーメイソンが具体的にどのような活動をしていたかは不明ですが、定職を持たずに長らく経済的に不遇だったモーツァルトが、それでもフリーランスとして作曲活動を続け、数多くの名曲を残すことができたのは仲間たちの支援があったからだとも言われています。

魔笛の中には「3」という数が多く出てきますが、これはフリーメイソンを象徴する数字です。特に、序曲の冒頭で使われている3つの和音はフリーメイソンの儀式で使われたものと言われています。また、冒頭で大蛇に襲われている主人公タミーノを助ける3人の女性(夜の女王の侍女たち)、3人の童子、3人の神官など3人セットで出て来る登場人物も目立ちます。

後半で出て来るエジプトの神の名前や、タミーノがエジプトの神殿で挑む試練も、フリーメイソンの入会儀式に関連していると言われます。フリーメイソンは中世の石工のギルドを基盤に形成された、もしくは石工の集団を参考に後世に形成されたと言われています。

中世の城や教会、大聖堂など巨大な石造りの建造物は、当時の最先端の技術と知識の結集されたものでした。そして、石工はその設計から工事までを担う超最先端技術者集団、現在で言えばアメリカのNASAの科学者たちのような存在だったのです。彼らが偉大なる先人としてあがめていたのが、彼らよりずっと古い時代にピラミッドやスフィンクスなど巨大建造物を造った古代エジプトの技術者たち。だから、フリーメイソンの儀式には古代エジプトをモチーフにしたものが多いそうです。

ちょっと話が横道にそれますが、「エジプトのスフィンクスの目の前にアメリカ発祥の某フライドチキンのお店がある」というトリビアを聞いたことがありますか? 壮大な古代遺跡の真ん前にファストフード、というギャップが笑い話として語られることが多いのですが、実はフライドチキン店の創始者カーネル・サンダースもフリーメイソンのメンバーだったのです。その関係から、あえてフリーメイソンのシンボルであるエジプトの遺跡の前に店を置いた、という説があります。

さて、モーツァルトに戻りますが、貴族に依存する古いスタイルから脱皮し、時代を先読みし、スポンサーからの支援をバネに多数の一般市民を顧客としてビジネスを展開する……現代のベンチャー企業にも通ずるものがありませんか?

19世紀に入ると、音楽を取り巻く社会はまさにモーツァルトが想定した方向に進んで行きました。演奏会やオペラは貴族や富豪が出資するものからチケットの売り上げをもとに公演を行うスタイルに変わっていき、「いかに大衆にアピールできるか」が作曲の重要な要素になっていきました。著作権に関する法律や世間の認識もも少しずつ整っていき、才能があれば専門の作曲家として生活が成り立つケースも増えてきました。モーツァルトがもっと長生きしていたら、押しも押されぬ大作曲家としてひと財産築いていたかもしれません。

しかし、モーツァルトには一つの大きな誤算がありました。魔笛の初演からわずか数か月後、35才という若さで亡くなってしまったのです。

モーツァルトの死因については諸説ありますが、歴史学者の間では病死であったという見解がほとんどです。映画「アマデウス」の題材にもなった「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂はモーツァルトの死後30 年近く経ってから突然出てきたもので、信憑性は薄いと言われています。

そもそもサリエリはモーツァルトと同じく相互扶助をモットーとするフリーメイソンのメンバーでした。その関係からか、あるいは音楽仲間としての義理からか、サリエリやハイドンはモーツァルトの未亡人コンスタンツェや2人の遺児を何かと支援していました。特に末っ子のフランツ・クサーヴァーは生後4か月で父親と死別したのですが、コンスタンツェの意向もあって「ヴォルフガング・モーツァルト2世」として音楽家の道を目指し、サリエリに弟子入りして作曲を学んでいます。

それだけモーツァルト一家に尽くしたサリエリなのに、なぜ晩年になってから「モーツァルトを毒殺した」という噂に悩まされることになったのでしょうか?

実は、その噂には次の世代のとある巨匠が関係していると言われています。そう、言わずと知れたベートーヴェンです!

いやいや、私が噂を流したわけではないぞ。サリエリは私の恩師だったのだ。私だけではなく、同世代の有名音楽家はこぞってサリエリに弟子入りしていた。超有名な先生だったのだ。いや、まてよ……そんなサリエリ先生に嫉妬している連中もいたな。だからこそあんな噂を流されたのか? これだから簡単にデマに左右される庶民はまったく……私はむしろ貴族の時代に戻りたい。貴族の時代に戻って私も貴族になりたかったのだ!

ベートーヴェンについては、次回の音楽ブログに続きます。

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