フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは1732年オーストリアのローラウに生まれました。少年期はウィーンに移り、シュテファン大聖堂の聖歌隊でソロ歌手として活躍しましたが、声変わりとともにあえなく解雇されてしまいます。しかし、聖歌隊時代に鍵盤楽器やヴァイオリンを学んでいたので、20代は音楽の教師、オーケストラの団員、教会のオルガン奏者などを掛け持ちして糊口をしのぎました。
そんな彼に転機が訪れたのは30才になる手前の1761年。地道な音楽活動を通じて当時のウィーンで活躍していた音楽家や文化人の間に名前を広めていたおかげで、当時のヨーロッパでも有数の大貴族であったエステルハージ家に副楽長として雇われることになったのです。
最初にハイドンが赴任したのはエステルハージ家の本拠地であるオーストリアのアイゼンシュタットですが、翌年に当時の当主パール・アントン公が急逝。その弟で後継者のニコラウス公はハンガリーの領地に「ハンガリーのヴェルサイユ」とも謳われた豪華な離宮を建設し、1760年後半からは一年の大半をこのエステルハーザ宮殿で過ごしています。ここが1766年に楽長に昇進したハイドンの主な生活の場となりました。
ニコラウス公は自身も熱心な音楽愛好家で、エステルハーザ宮殿にはオペラ劇場と操り人形劇場の二つの劇場のほか、音楽専門の大広間が二つあったとか。
ここエステルハーザ宮殿でのハイドンの仕事は…
まず、宮殿内のすべての楽器と楽譜の管理。また、楽団員全員の仕事も監督し、必要であれば教育もします。宮殿では週に一度のペースで要人を招いてオペラやコンサートが行われるので、そのための作曲と練習。もちろん演奏会の当日は私が楽団を統率しますが、大抵はチェンバロや第一ヴァイオリンを弾きながら指揮者も兼ねます。そうそう、ニコラウス公の音楽のレッスンにもほぼ毎日お付き合いしますよ。
うーむ、なかなかのブラック職場ですね。
しかし、ニコラウス公がハイドンの才能を高く評価し、信頼も厚かったため、ハイドンはニコラウス公の逝去まで実に30年近く仕えることになります。楽団員たちもハイドンをとても慕っており、「パパ・ハイドン」というあだ名は楽長時代につけられたとか。
楽団員思いのハイドンの性格をよく表している有名なエピソードが『交響曲第45番』です。前述のとおり、もともとエステルハーザ宮殿は離宮だったため、楽団員含めほとんどの家臣たちはアイゼンシュタットから長期出張している状態です。家族はアイゼンシュタットに置いたまま単身赴任というケースも少なくありませんでした。しかし、当主のニコラウス公はこの宮殿があまりにも気に入ってしまったため、すっかり腰を落ち着けてしまってなかなかアイゼンシュタットに戻る気配がありません。
みんな、家に帰りたくて気分が消沈しているな……しかし、音楽家とてしがない使用人の立場。ニコラウス公に直訴するなんて絶対に許されることではないし……これはなんとかせねば。そうだ!
家族のもとに帰りたがっている楽団員たちの気持ちに気が付いたハイドンは、一計を案じてこの交響曲を作曲しました。
御前演奏の当日。当時の交響曲の形式に沿って、軽快なテンポ(アレグロ)の第1楽章、ゆったりとした第2楽章、舞曲(この場合はメヌエット)の第3楽章、一番テンポの速い(プレスト)第4楽章からなるこの作品。最終楽章のプレストが終わりかけた時、突然がらりと音楽の雰囲気が変わりました。
さて、質問です。いったいここで何がおこったのでしょうか?
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実際の演奏の様子を見てみましょう。第4楽章のはじめからの抜粋です。
曲の途中なのに楽団員が一人、また一人、とステージを去っていきますね! 観客席からは思わず笑い声が……。
ハイドンの楽譜にはちゃんと指示が記してあり、「各自、自分のパートを弾き終わったら楽器を片付け、楽譜を照らしている蝋燭を吹き消し、舞台を去ること」とありました。最後まで弾き続けたのはコンサートマスターのヴァイオリン奏者と、その隣で指揮をしながら同時にヴァイオリンを弾いていたハイドンの二人だけ。その二人も曲が終わるとおもむろに舞台から下りて行きました。この画像では当時と同じく指揮者が第一ヴァイオリンを兼ねているので、雰囲気が伝わってきます。
ちなみに、指揮者がヴァイオリンを兼ねず楽団員の前で指揮棒を振る現代のスタイルでは、指揮者もこの曲の途中でヴァイオリン奏者を残してステージを降りてしまうのが通例となっています。力なく指揮棒を下ろし、観客に向かってちょっと肩をすくめて見せるなど、普段はお堅いイメージのある名指揮者たちのおちゃめな演技が見ものなので、動画サイトなどでこの曲を見つけたらぜひチェックしてみてください。
この交響曲の初演の演奏会の後、ニコラウス公はユーモアたっぷりのこの抗議を聞き入れ、すぐにアイゼンシュタットに戻ることにしたそうです。「エステルハーザ宮殿に別れを告げた」この交響曲がのちに『告別』というニックネームで呼ばれるようになる所以です。
さて、この交響曲が作曲されたのは1772年ですが、前回の音楽ブログに出てきた回文メヌエットMenuet al Rovescioの原曲であるオーケストラバージョンが入っている交響曲47番も同じ年に作曲されたと言われています。
そこで、前回の質問「ハイドンはなぜこんな曲を作曲したのでしょうか?」の答えです。それは…
「それを理解してくれる上司がいたから」です!
Menuet al Rovescioを聴いてぱっと「あ、これは最後から弾いても同じ曲だな」と察した人は、楽器を弾いたことがあったり、クラシック音楽のディープなファンだったり、いわゆる音楽通である場合がほとんどだと思います。今回の交響曲第45番『告別』にしても、聴き手にハイドンの意思をくみ取る知識や感覚がなければ作曲した意味はなかったことでしょう。
当時、ヨーロッパの貴族の子女に音楽教育は必須でした。数学や科学は学ぶ必要がなくても、好き嫌いに関わらず音楽の知識は避けて通れないものだったのです。ましてや、自身もかなりの音楽通で、「バリトン」という楽器の名手だったニコラウス公のこと。当然ながら、そんなニコラウス公が招くお客たちも、音楽に関してはある程度鍛えられた感覚の持ち主です。ハイドンは彼らのために心置きなく自分の全ての知識や技術を発揮することができました。
例えば、この交響曲第45番は嬰ヘ長調という当時の常識から言ってかなり難しい調で描かれており、ハイドンはこの曲のためにホルンを特注しなければならなかったそうです。(クラシックの楽曲の調性については複雑な背景があるのですが、機会があればいつかあらためて特集します)しかも、ただ単に難しい調性というだけでなく、和声的にも複雑な部分があり、かなり技巧的な要素が多いのです。そして、そのようなハイドンの作曲姿勢を認め、全面的にサポートしていたニコラウス公との二人三脚があったからこそ実現したのでしょう。
実際、この時期を経たあとのハイドンの音楽には、同時代の作曲家のものに比べて時代を先取りしているとしか思えない要素も多く、耳の肥えた人でも一部分だけぱっと聞かされたら「これは19世紀生まれの作曲家の作品かな?」と錯覚してしまうことも少なくないのです。かなり通向きですが、オラトリオ『天地創造』の序曲など鳥肌ものです。
しかし、現代の基礎教育は音楽よりも語学や数学や科学などに重点を置いています。ピアノやヴァイオリンなどのお稽古事をしている子供たちも、受験を機にレッスンを辞めてしまうケースも多いですよね。そのぶん音楽経験の乏しい現代の聴き手には、ハイドンのどこが良いのか今一つわかりにくいのも事実。特に音楽通でなくてもベートーヴェンやモーツァルトの音楽を聴いたことのある人に比べ、「ハイドンの曲を聴いたことがある?」と聞かれてぱっと曲名を思いつく人は圧倒的に少ないのではないでしょうか。
でも、実はハイドンは大勢の人に愛される親しみやすいメロディもたくさん作曲しているんですよ。その中でも、ぜひこれだけは知っておいていただきたいのがこの曲。『弦楽4重奏62番作品76の3』から第二楽章です。
スポーツファンの方、どこかで聴いたことありますよね? サッカーの試合やオリンピックで……そう、ドイツ国歌のメロディです! もともとこの曲は1797年、神聖ローマ帝国最後の皇帝であったフランツ2世の誕生日のために、皇帝を讃える歌として作られました。ハイドンはのちにこのメロディを弦楽4重奏曲の一部として転用しており、ハイドンの作品としてはこちらのほうがより頻繁に演奏されています。
1805年にフランツ2世の参戦したロシア・オーストリア連合軍はアウステルリッツの戦いでナポレオンの率いるフランス軍に敗れました。その翌年には神聖ローマ帝国は消滅しましたが、この曲には別の歌詞がついてオーストリアやドイツで非公式に歌い継がれ、1922年にはその一形態である『ドイツを讃える歌』が正式にドイツ国歌として採用されました。オーストリア人であるハイドンの曲がドイツ国歌になったのですが、オーストリア側から特に反対意見は出なかったそうです。
数々の戦争や、統合と分裂を伴う複雑なドイツ・オーストリアの歴史。その中で、なぜこの曲が古い世代から新しい世代へと大切に受け継がれてきたのか。じっくり聞いてみると、その答えはこの音楽そのものが教えてくれるような気がします。
さて、ハイドンの生きた18世紀後半のヨーロッパと言えば、言わずと知れた激動の時代。フランス革命を経て、それまでの貴族中心の社会が大きく崩れて行った時期でもありました。
そんな時代に、まだまだ権力も財力も健在なエステルハージ家に30年も安定して仕えることのできたハイドンは奇跡的にラッキーであったとも言えます。実際は、貴族社会に依存していたほとんどの音楽家にとっては受難の時期でもありました。経済的にひっ迫した貴族から突然解雇されてしまう者あり、どんなに才能があってもなかなか就職先が見つからない者あり……。
ここに、そんな社会情勢をしっかり見据え、次の時代に向けて羽ばたこうとしていた、ハイドンと同じオーストリア出身の天才作曲家がいました。
貴族に仕えて、ひたすら上司のために曲を作り続けるなんてもう古い! これからは平民の時代、音楽家が生き残るためには一般人に広くアピールできる曲を作って稼がねば!(いや、本音を言えば、僕だってこんな時代じゃなければもっと安定した宮廷生活を送りたかったんだけどね…)
次回の音楽ブログの主人公は、言わずと知れたヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトです!
*参考文献
Grout, Donald J., and Claude V. Palisca. A History of Western Music, sixth edition. New York: Norton & Co.. W.W. 2001. pp.465-472.
Stolba, K. Marie. The Development of Western Music. Madison, Wisconsin: Brown & Benchmark, 1994. pp.392-403.
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